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今後の予定
・6月15日(土)午後1時30分~午後3時
家族会定例会 亀田リハビリテーション病院会議室
・7月 6日(土)予定開催時間 13:00~17:30
一般社団法人日本脳損傷者ケアリング・コミュニティ学会
・7月 7日(日)予定開催時間 10:00~15:30
会場:東京医科歯科大学M&Dタワー鈴木章夫記念講堂
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高杉 晋作 「面白きこともなき世を面白く」
高杉は天保10年(1839年)と言いますから、今からざっと200年前でしょうか、長州藩と言いますから今の山口県で生まれます。19歳の時に吉田松陰の私塾「松下村塾」へ入ります。そこに一つ年上の久坂玄瑞と言う方も居まして、松陰はこの二人の能力を引き出すため競わせます。高杉は20歳の時江戸へ遊学に行きます。松陰と手紙でやり取りしており、ある時「男の死に場所というのはどこか」と質問を投げかけます。すると松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と返します。
その後松陰は、安政の大獄で捕らえられて処刑されますが、高杉が24歳の時藩の代表として海外視察を命じられます。初めて見た上海は衝撃的なものでした。西洋人にこき使われる中国人を見て、「上海は英仏の属地となっている」と感想を残しています。アメリカの圧力で開国したばかりの日本も、いずれ同じ道を辿ってしまう。高杉の中に危機感が強く生まれ、帰国したて幕府打倒の実現に力を入れていきます。同士を募り幕府打倒の計画を練っていた高杉に、藩は大胆な行動を控えるよう注意を促しまが、藩の弱腰な姿勢に憤った高杉は10年の暇を願い出ました。文久2年12月、高杉は幕府が建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨ら仲間と共に焼き討ちにします。文久3年5月10日、開国反対だった長州藩は沿岸を通る外国船に砲撃を行います。1ヶ月後に報復に訪れた外国船は近代的な兵器を備えていたため、長州藩の武士達はまともに戦うこともできず、この力の差を目の当たりにした長州藩は、海外視察の経験もある高杉を呼びます。
高杉はそこで騎兵隊を作ることを進言。武士、町民、農民などの身分を問わずに本人の能力があれば入隊する事ができると定め、直ちに隊員を募集すると4日間で60人程が集まり奇兵隊が発足します。西洋式の戦略と兵器を用いた奇兵隊は、下関の防御を命じられます。続いて藩内には次々に民衆の軍隊(相撲取りの力士隊、商人の朝市隊、神主の神威隊、漁師の遊撃隊など)が結成されました。諸隊の数は200。兵力は2000人に達しました。ところが、民衆が武器を持つことを好まない武士達との間で対立が起き、奇兵隊士が武士を斬りつける事件が起こりました。藩は高杉に責任を取らせて奇兵隊の総督を解任します。その後も軍事行動の方針で藩士と対立した高杉は脱藩し、その罪によって牢に入れられます。この間、京都で長州藩士が幕府の命を受けた新選組に殺される事件が起こります。「池田屋事件」です。長州軍はこれを受けて京都に進攻するも、幕府方についた薩摩軍と会津軍に破れてしまいます。晋作の盟友久坂玄瑞もこの時戦死。その知らせを聞いた晋作は悔しさに打ちひしがれました。幕府に立ち向かったとして、長州藩を武力で制圧する命令が出されます。いわゆる第一次長州征伐で、全国の大名に動員が命令されました。それだけでなく、長州藩を更に危機が襲います。欧米列強の艦隊が来襲し、下関の砲台が占領されたのです。この危機的状況に藩は高杉を呼びます。
藩主の命により4ヶ月に及ぶ幽閉を解かれ、外国艦隊との停戦交渉を任されます。交渉の相手はイギリス提督。高杉は正装で直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)といった格好で現れ、終始相手を圧倒します。相手が提示した停戦条件は300万ドルの賠償金の支払い。当時の日本円で900億円もの大金でした。高杉はこれを拒否します。「この争いの責任はそもそも幕府にある」請求は幕府にしろと言い放ちます。これに対しイギリス提督は攻撃の再開をほのめかしますが、「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」と屈しません。結局賠償金の請求は幕府に行われ停戦となり、外国艦隊の脅威を免れました。しかしその頃、長州征伐の進軍が始まっていました。長州軍4000人に対し、幕府軍は15万人。普通に戦っても勝ち目はなく、この頃多数を占めていた藩内の保守派は、争いを避けるために高杉らの追放を図ります。命を狙われた高杉は、九州の福岡に身を隠しました。幕府軍に囲まれた長州藩は幕府の要求を受け入れ、家老3人の切腹を行います。更に軍の参謀4人も処刑されました。このままでは長州藩は潰れ、幕府の力はより強大になる。藩は再び高杉を呼びます。
高杉は急ぎ長州へ戻ります。奇兵隊本体の駐在所を訪ね決起を促しますが、奇兵隊総督は「無謀である」と拒否します。たとえ一人でもやってみせると、力士隊などの諸隊を廻り決起を呼びかけていきます。そして決起当日、功山寺に最初に集まったのは松下村塾の後輩伊藤博文が率いる力士隊でした。続いて猟師らの遊撃隊も集まりましたが、総勢で80人程でした。しかし、晋作にとっては十分な人数でした。「これよりは長州男児の腕前をお目にかける」。下関の役所を襲撃した高杉達は、ここを拠点として藩内に決起を促す檄文を送りました。すると次第に協力者が増え、奇兵隊士も加わっていきました。最終的に3000人にも膨れ上がった軍隊を率い、萩へ進軍を開始します。西洋式の装備と戦略により保守派が送った軍を打ち破ると、これを機に長州藩の保守派は一掃され、再び幕府に対して立ち上がることになりました。大勝利を収めた高杉でしたが、藩の要職に就く事はせず、イギリスへの留学を志して長崎へ向かいます。ところが、長州藩の動向を知った幕府は第二次長州征伐を発令。大型の軍艦4隻を長州へ送り込みます。これを受け長州藩は高杉を呼びます。
留学を中止して長崎から戻った晋作は、小さな船1隻で幕府軍に奇襲をかけます。この戦略に混乱した幕府軍は総崩れとなり、再び大勝利を収めました。この勝利を機に3000程だった長州軍は幕府軍を次々を打ち破っていきます。いよいよ幕府打倒が実現する直前、高杉は病(肺結核)に倒れてしまいます。死の直前「ここまでやったのだから、あとはしっかりやってくれ」という言葉を残し、この世を去りました。明治維新の目前の4月14日、29歳の時でした。その後大政奉還が行われ新政府が誕生。明治という新しい時代に入って行きます。
時代は令和。災害・不況・少子高齢化、高杉を呼べー!!…「え?高杉はいない??」
さてさてこの難局を打開する次の一手が貴方に託されています。貴方はどうしますか???
「出てこい令和の高杉よ。高杉を呼べー!」
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「第13回日本脳損傷者ケアリング・コミュニティー学会(東京大会)」
2015年10月、一般社団法人日本脳損傷者ケアリング・コミュニティ学会は発足しました。
一般的に、脳損傷などによる障害になると、支援を受ける側に限定されがちですが、支援を受けつつもさまざまな可能性を追い求め、障害があるからこそできる役割があるのではないかと考えます。その延長上に、障害ある人が支援者側に回ることも考えられ、いわゆる支援者も障害がある人々からさまざまな学びがあると考えます。人の生活は多くの要素が絡み合い、さまざまな支援によって営まれますが障害があるとさらに複雑になります。
本学会は、障害者、実務家、学者などが一体となって参画する、研究委員会、研修委員会、当事者社会参加推進委員会、スポーツ・文化委員会、広報委員会を通じて、学会の目的にある「脳損傷(脳卒中、脳外傷など)の人々と周囲の人々が同じテーブルでさまざまな活動や体験について討議し、地域において主体的な暮らしを営むのか、どのように改善していくのか、等を研究すると同時に、実践していく運動体である。そして、かかわるすべての人々が双方向に学びあう関係になり、共に生きていく社会づくりの実現に寄与すること」を目指していきます。このような活動を発展させるにあたり、より多くの人に当学会の運営目的をご理解いただき、学会の会員としてご入会いただければ幸いです。
具体的には、正会員と賛助会員を募集しています。正会員は本法人へ可能な範囲内で積極的に運営に参画する意思を書いていただき、理事会で承認することになります。賛助会員は申込制です。ご支援よろしくお願い申し上げます。
東京大会開催概要
大会テーマ:「 いっしょに考えて、わたしが決める~。やってみよう協働意思決定」
・大 会 長:中村千穂(ハイリハキッズ代表)
・主 催:一般社団法人日本脳損傷者ケアリング・コミュニティ学会
・日 時:2024年7月6日(土)予定開催時間 13:00~17:30
7月7日(日)予定開催時間 10:00~15:30
・会 場:東京医科歯科大学M&Dタワー鈴木章夫記念講堂
東京都文京区湯島1-5-45(鈴木章夫記念講堂案内図)
(最寄り駅:JR御茶ノ水駅、東京メトロ丸の内線 御茶ノ水駅、
東京メトロ千代田線新御茶ノ水駅)
*日本高次脳機能障害友の会は、すでに理事として発足時から参加しています。
昨年は沖縄大会でしたが今年は東京で行われます。南房総家族会としての参加も
可能ですので参加希望であれば家族会事務局までご連絡ください。
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「人生を変える迷言」
長い人生の間には様々な困難がありますが、先人達はそれをどう乗り越えたのか
学び行動した結果を解りやすく話してくれる言葉があります。皆さんも短い言葉で
すが希望の扉が開かれたように感動したこともあるとは思います。ところが、なか
には名言が迷言になっている言葉があります。それはそれでまた楽しくなる、そん
な言葉を集めてみました。貴方の心が沈んでいるときに読んでいただければ幸いで
す。貴方に新たな希望が生まれますように。
・皆んな寝すぎだ!私は死んだ後たっぷり寝る
(トーマス・エジソン)
・私ね、人からやさしさを貰ったら心に貯金しておくの、寂しくなった時はそれを
引き出して元気になる。あなたも、今から積んでおきなさい、年金よりいいわよ
(柴田トヨ 百歳の詩人)
・おにぎりが貰えるまで歩くから、貰えないってことはないんだな。
(山下 清 流浪の画家)
・「恋」っていったじゃん、だから「愛」にきたぜ。
(未詳)
・なぜ美人はいつもつまらぬ男と結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ
(サマセット・モーム イギリスの作家)
・最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない
目標が低すぎて達成してしまうことだ!
(ミケランジェロ イタリアの彫刻家)
・失恋した? そのうち失恋もできなくなるよ。
(未詳)
・接吻されたとき、ある女は顔を赤らめ、ある女はお巡りさんを呼び、
ある女は噛みつく。しかし、いちばん悪いのは笑い出す女である。
(フランスのことわざ)
・どうかしましたか? 誰かにそういわれるときは、必ずどうかしている。
(串田 孫一 詩人)
・うーん、どうでしょうかー この試合1点でも多く取ったほうが勝ちでしょう。
(長嶋 茂雄 プロ野球監督)
・結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
今考えると、あのとき食べておけばよかった。
(アーサー・ゴットフリー 俳優)
・あんまり寒かったのであやうく結婚しそうになっちゃった。
(タニア シェリー 女たちの名文句)
・女のおしゃれ心は恋に比例するの、おしゃれをしなくなった女は危ない。
(宇野 千代 作家)
・恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
(H・ハイネ ドイツの詩人)
・「勝ち負けは重要ではない」と言った人は、すでに皆負けている。
(マルチナ・ナブラチロワ テニスプレーヤー)
いかがでしたか、それはそれで人生の名文句を残してる有名な皆さんです。
貴方の人生の糧となれば幸いです。
本日もご覧いただき、ありがとうございました。