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今月の予定
・11月16日(土)午前9時30分~
安房拓心高校拓心祭
・11月16日(土)午後1時30分~ 沓見楽市座
家族会定例会
・11月23日(土)午後11時30分~ 亀田病院Kタワー13階
みなと高次脳家族会との交流会
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「11月23日、みなと高次脳家族会との交流記念」
パート1●「安房の国(南房総)と忠臣蔵」
12月と言えば、ご存知「時は元禄15年12月14日」の忠臣蔵ですね。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷
(にんじょう)に及んだ事件、正式には赤穂事件と言うそうですが、赤穂藩
三百数十人いる中で残った47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野ノ介の首を
泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に捧げます。
この47人のリーダと言える人物が大石内蔵助(おおいしくらのすけ)で
すが、実は大石は討ち入りよりは浅野家再興を願って幕府に再三お伺いをし
ますが、幕府は許しません。結果討ち入りの道を選んだ。この決断は大変な
事で、すでに赤穂藩御家断絶城明け渡しですから全員浪人になっています。
その皆さんが幕府に逆らうわけで、全員切腹覚悟です。
大石は浅野家再興を願うために藩主に選んだ人物が浅野長広(あさのなが
ひろ)、一般に浅野大学(あさのだいがく)として知られた浅野内匠頭の弟
です。内匠頭が江戸城で刃傷という事件後、広島浅野宗家にお預けとされて
いましたが、宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦
で許され、宝永7年(1710年)9月16日には新将軍徳川家宣(いえの
ぶ)に拝謁して、改めて安房の国(南房総)朝夷郡・平郡(へぐりぐん)に
500石の所領を与えられ旗本に復帰します。
この500石、正木村(現館山市)から400石、江見村(現鴨川市)か
ら100石、またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続け、
ここに赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たしました。享保9年(172
4年)7月19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居し、享保19年(173
4年)6月20日に65歳でこの世を去ります。墓は兄や赤穂浪士と同じ高
輪泉岳寺に葬られ、赤穂事件は終焉をむかえました。
今からおよそ300年前に起きた事件ですが、日本人の心を打った事件で
す。安房の国は旧冨浦町で育ってのちに講談師になり、「赤穂義士伝」を全
国に広めた柴田南総さんの功績は大変なものですが、浅野大学さんの話まで
行ったらこの南房総の歴史も大きく変わったのかも知れませんね。
もし皆さん泉岳寺に行く機会がありましたら、浅野大学さんのお墓も探し
て見てください。きっと安房の国は南房総にも来たくなりますよね。
パート2●「忠臣蔵外伝 向西坊入定窟(こうさいぼうにゅうじょうくつ)と
浅野家再興の地」
吉良邸に討ち入った赤穂浪士の方々の中に、片岡源五右衛門高房という浪士
がいました。この源五右衛門、片岡家を百石で継ぎ、十九歳の時には二百石、
二十四歳で三百石と出世街道をひた走り、義士中では大石内蔵助に次ぐ高禄者
となり、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹の時、ただ一人面会した人と
伝わっています。その源五右衛門の下働きとして身の回りの世話をしていたの
が「元助」(もとすけ)と言う方で、のちに向西坊と名を変えます。
元助の故郷は群馬県安中市で、農家の長男として生まれ、わずかな金銭を持
ってお伊勢参りに旅立ちます。当時のお伊勢参りは、背中の荷物に柄杓(ひし
ゃく)をさして歩けば「あ!お伊勢参りの人だ」と分かる。道すがら同じ人も
いるものですから、旅は道ずれで助けてもくれますわな。ところが帰り道とも
なるとそうはいかない、すでに持ち金も使い果たし、服はボロボロ腹は減る、
物乞いをするが周りにも同じような物乞いがいて、物乞い同士の争いで殴られ
蹴られ。そこへ通りかかったのが 浅野家家臣の片岡源五右衛門さんです。これ
が縁で、元助さんは源五右衛門さんの下働きとして奉公に励みます。
ところが数年後、あの江戸城松の廊下での刃傷事件が起こります。赤穂に事
件が知らされた時はすでに浅野内匠頭は切腹。浅野家は断絶と決まり、家臣は
浪人となりました。赤穂藩城代家老の大石内蔵助は、幕府に浅野大学を以って
浅野家再興を再三お願いするも幕府は認めません。結果、大石は吉良邸討ち入
りを決断。その討ち入り前夜…。
元禄十五年十二月十三日、源五右衛門は元助に暇を出そうと、褒美の品と大
金を差し出すが元助はこれを聞き入れない。源五右衛門は、実はもう金が無く
なった、実は伊達家へ仕官することになった、などと偽りを言ってごまかそう
とするがすぐに見透かされてしまう。
それでもどうしても暇を出すと言い張る源五右衛門。元助は私にしくじりが
多いからだ、死んで詫びると言い出す。それを止めようとする源五右衛門と押
し問答になる。そこへ通りかかったのが見廻り役の大高源吾と武林。留守中元
助が何かを盗もうとしたのだと早合点した武林は元助を殴り倒す。源五右衛門
は慌てて「そうじゃない!」と逆に武林を止め訳を話します。大高源吾、武林、
源五右衛門は三人で話し合い、これほど忠義な者であるなら打ち明けても大丈
夫だろうという結論になった。
源五右衛門は元助に明日の討ち入りの件を打ち明ける。これほどの大事を自
分のような者に打ち明けてくれた事に感謝する元助。元助は水盃をして三人を
送り出す。部屋を掃き清め、宮八幡武神の額を揚げ、燈明(とうみょう)をあ
げ、ご本懐を遂げられますようにと祈る。
翌朝、夜通し祈り続けた元助の耳に「赤穂のお侍が吉良の首を討ち捕った!」
との大声。慌てて外に出ると赤穂浪士を一目見ようと多くの人が集まっていた。
元助は人混みから遠くに雪を踏みしめ歩いてくる赤穂の方々を見て、「きっと
いる必ずいる」と無事を祈り、泉岳寺へと引き上げる義士の隊列の中から源五
右衛門を見つけ出す。源五右衛門も元助を見るとうなずきながらかすかに目に
涙が出ていた。元助も溢れる涙を抑えきれず手を合わせてうずくまっていた。
その後、浪士が切腹となると元助は頭をまるめ、生まれ故郷の安中で二十年の
歳月をかけ四十七義士の石像を彫りあげ、榛名山のふもとに祀り旅に出ます。
宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で浅野家は許
され、宝永7年(1710年)9月16日には新将軍徳川家宣に拝謁し、改め
て安房の国朝夷郡江見村に500石の所領を与えられ、旗本に復帰します。
大石内蔵助が浅野家再興を願うために藩主に選んだのが浅野長広(あさのなが
ひろ)、浅野内匠頭が江戸城で刃傷という事件後、広島浅野宗家にお預けとさ
れていました。 浅野家は幕府直轄地である江見村(東江見)に旗本ながら御
家再興を果たしました。元助は仏門に入り向西坊と名を変え、諸国の旅で浅野
家再興の話を聞き、房州は安房の国に着きますが、すでに天命を悟り片岡源五
右衛門が仕えた浅野家のそばで享保16年(1731)黒滝近くの岩穴に入定
して一生を終えました。享保9年(1724年)浅野長広は嫡男の長純に家督
を譲って隠居し、享保19年(1734年)6月20日に65歳でこの世を去
ります。墓は兄や赤穂義士と同じ高輪泉岳寺に葬られ、赤穂事件は終焉をむか
えました。
現在、江見町は鴨川市、和田町は南房総市ですが、当時の安房国朝夷郡江見
村と、黒滝のある安房国朝夷郡花園村(現和田町)は隣でした。今は浅野家再
興の地として残されているものはありませんが、資料や向西坊伝説により、東
江見に浅野家武家屋敷あったと思われます。入定窟は花嫁街道ハイキングコー
スにある黒滝のそばにあります。今からおよそ300年前の出来事でした。
みなと家族会の皆さんにもこの元助さんのお墓にいつか時間があればお参り
していただければとは思います。
この赤穂事件、単純に武士の仇討ちと思われがちですが、吉良上野ノ介の後
ろには強大な力を持つ幕府がいます。武士同士の争いは喧嘩両成敗の法に幕府
の裁定は片手落ちと異を唱え、再三お伺いを立てるも幕府の裁定は変らずその
うえに赤穂藩断絶城明け渡しで3百数十人が浪人となりました。だいぶ前にな
りますが大石内蔵ノ助役で緒形拳さん主演の「峠の群像」というNHKの大河
ドラマが放映されました。幕府の強大な力もこの峠を境に下るという意味なの
でしょうか、浪人になった47人が吉良邸に討入り幕府に異を唱え、幕府の権
威が崩れ明治維新へと突き進むきっかけになります。わずか47人の浪人が時
代を変えるいさぎよさに江戸庶民は拍手喝采でしょうね。300年たった今で
も泉岳寺では毎日お線香をあげる方が多くいるそうで、私も今年のはじめにお
参りにいきました。もうすぐ12月14日がきますがテレビ放送関係の皆さん
にはぜひこの「忠臣蔵」の放映をお願いします。特に若い方にみていただきた
いと思っていますのでよろしくお願い致します。みなと高次脳の家族会と南房
総の家族会、このご縁を大切にしたいですね。
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さて、今年も残すところあとわずかになりました。2024年は貴方にとっ
てどんな年でしたか? 今年はなぜか多くの方との出会いがありました。高次
脳機能障害関連で活動拠点を見学に来る方はいますが、作業場に物を取りに来
た方が「高次脳機能障害の場所ってここですかー?」と言われ「え?そうです
よ」というと「いやーじつは以前に亀田病院で高次脳機能障害のチラシを見て
映画会に参加したことがありまして」なんて言われて、初めて会った人にいわ
れると急に親近感が湧き「ふんふん あーそうなんだー それでふんふん」…
初めて会った方が突然昔からの友人になったり、自分で笑ってしまいますが、
人との出会いって理屈じゃーないなと思います。
また、能登の震災では、4月に能登復興支援のイベントに70人参加いた
だいて義援金を送り、10月のフリーマーケットでも、会場に来た方や同じ出
店者の方ともコミュニケーションできまして、いい思い出になりました。もち
ろんイベントのときは高次脳機能障害のノボリを立てチラシを配って家族会の
宣伝をしていますので、この南房総地域では少なからず広まっていると思いま
す。しかしながら、自分の家族が高次脳機能障害にならなければ関心がうすい
のが現状でしょうね。でも、人との出会いを大切にしていけばいつかは高次脳
機能障害の役に立つ日がくることを願って、今後も続けて行きたいと思ってい
ます。皆さん頑張りましょうね。
今月もご覧いただきありがとうございました。