南房総高次脳機能障害家族と支援者の会 なんぼーこーじの毎月更新の会報です
安房の国から2017 南房会ストック11月号
南房総高次脳機能障害家族と支援者の会

安房の国から2017           南房会ストック11月号
              南房総高次脳機能障害家族と支援者の会
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10月定例会の内容

1、  10月21日 家族会定例会朗読劇の練習をさざなみホールで行いました   

2、 今後の予定
   ・11月18日 家族会定例会
           10周年打ち上げ芋煮会 午後12時から 沓見 楽市座
   ・12月16日 家族会忘年会 午後12時から 沓見 楽市座
   ・12月28日 第3回安房拓心高校音楽部レギュラーライブコンサート
           時間 午後1時~午後3時30分
           場所 南総文化ホール 小ホール 無料
   ・ 1月18日 落語会 出演 真打 林家久蔵
           時間 未定
           場所 国の重要文化財 石堂寺 無料

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南房総高次脳機能障害家族と支援者の会10周年記念
「明日に架ける橋」 実施報告

10年前の設立時は3家族からの出発でした。まだこの地域に高次脳機能障害はまったく知られていませんでした。でもこの障害に苦しんでいる家族はこの地域にも必ずいるはず、どう広めていくかが大きな問題でした。そこでいろいろなイベントに極的に参加して参加団体との交流や家族会のチラシを配り、徐々に知られるようになっていきます。しかし入ってくる会員がいてもやめて行く会員もいて、会の運営に限界を感じる時もありました。そんな繰り返しで10年やってきました。

やめた会員のためにも、まだ会を知らない高次脳機能障害の方のためにも、10周年を新たな出発の機会にしょうと今回の取り組みを始めましました。
今年3月の総会で10周年記念の取り組みを決定。 5月の定例会で準備会を立ち上げ、実施日・宣伝方法・取り組みの内容などが話し合われました。6月の定例会では、会場をとみうら元気倶楽部とし、内容を「朗読劇」に決定。
朗読劇の台本は8月31日までに完成。台本の内容は現在の当事者会員の事故や病の発症状況を取り入れ、病院の入院から退院までの経過、家族会との出会いまでをできるだけ事実にもとづいて取り入れました。また、高次脳機能障害を解りやすく説明するにはどうしたらいいか、会員みんなで考えました。
8月に入り「館山ダルク」「安房西高校吹奏楽部」に参加を依頼、了解をいただいて当日の流れが決定します。 行政関係には館山市・鴨川市・南房総市・鋸南町に案内を送付、鴨川市は11月11日に役所でイベントがあるので参加できないとの返事をいただきました。
9月にチラシができて宣伝活動開始。セブンイレブン・鴨川市の公民館・各行政の支所に配りました。新聞関係は房日新聞・東京新聞。11月5日の房日新聞一面トップに載せていただき会員一同感激しました。ありがとうございました。次の日に3名の方から問い合わせがあり、そのうちの1名が会場に来られて、帰りに定例会の見学をしたいとの意向を伺いました。東京新聞は、さざなみホールでの公開練習を取材したいとの話がありましたが、選挙の投票日が翌日に決まったため叶いませんでした。

当日は参加者120名。最初に館山ダルクの琉球舞踊エイサーで会場全体が盛り上がり、開会宣言でセレモニーを行い、祝辞と祝電をいただきました。
来賓として、鋸南町は町長 白石治和様、館山市は市長の代理で健康福祉部社会福祉課課長 繁田正彦様、南房総市は市長の代理で健康福祉部部長 加藤浩一(ひろかず)様に出席いただきました。祝電は、友好団体「障害者作業場みつばちワーク」様よりいただきました。
「朗読劇」は、練習では本当にやれるのか?と不安がいっぱいでしたが、さすが本番に強いメンバーで、高次脳機能障害当事者の出演も大成功でした。最後は安房西高校吹奏楽部の演奏でした。若さあふれる軽快な音楽で、今回の副題「明日に架ける橋」も演奏していただき、会員一同感激でした。
当日は遠方より、千葉県リハビリセンター病院・千葉県広域専門指導員の方々、また、創立当初お世話になった懐かしい顔ぶれのみなさんにもお越しいただき、話に花を咲かせました。

当日ご来場の皆様、出演されました団体の皆様、ありがとうございました。また、後援いただきました千葉県中核生活支援センター「ひだまり」、亀田リハビリテーション病院、障害者就業・生活支援センター「中里」、NPO法人「スマイル安房」のみなさん、ありがとうございました。
今回の10周年の取り組みを糧として更に前に向かって頑張ってまいりますので、今後ともお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

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高次脳機能障害
「脳梗塞からのリハビリ・・支えは家族だった!」

以前、あるスポーツ紙を読んでいたとき、最後のページに皆さんご存知の横綱大鵬さんの手記が載っていました。私の子供の頃は「巨人・大鵬・卵焼き」と、子供だけではなく大人にも人気の合言葉にもなっていて、柏戸・大鵬両横綱の大一番は大歓声でした。
昭和55年初土俵、60年新入幕、61年第48代横綱、2度の6連覇などで幕内優勝32回の最多優勝回数など輝かしい記録を残し、71年夏場所で引退しました。その後親方として大鵬部屋を構え後進の指導に専念、80年に相撲協会理事となって相撲界の発展に貢献しています。
一度だけNHKの相撲解説者として取り組みの解説を聞いたことがあります。辛口で大関・横綱の取り組みを見て「あれでは駄目だ!もっと前に出ろ!稽古がたらん!」と勝った力士にも言うものですから、解説者としては人気がなかったのか、その後解説を聞く機会はありませんでした。
ところが今回の手記で、71年に相撲界引退後、77年に脳梗塞で倒れ手術後左半身が麻痺、歩くことも物を持つことも出来ない身体になっていたことに愕然としました。当然リハビリに専念するようになりますが、あの横綱が病院の廊下を這(は)う姿は、見て通る人の目には不思議というよりは異様な光景だったでしょう。人並はずれた体格ですから誰が見ても大鵬だとわかります。
大鵬さんは主治医の方に「先生何でも言ってください。何でもやりますから!」。大鵬部屋の弟子たちが心配で夜も眠れなかったそうで、早く元の姿に戻らなければと朝4時に起きて手や足の機能訓練・公園でのキャッチボール・近所の歩行訓練・おはじきをつまむ訓練・審判の仕事に復帰したときのために土俵と同じ高さを上がったり下がったりの訓練など、精力的にリハビリに励んだそうです。
地道な積み重ねが実り、杖を使わず手すりに捕まらず歩けるようになります。「かわいそに」と指差す人や「なんだ!横綱がこんなことも出来ないのか」と言われるのが逆に励みに聞こえる精神的な強さもあったのでしょう。車も運転できるまでに見事に回復!
「このリハビリを通して思うことは、医師の力に頼るのではなく、自分から前向きに進んでやらなければ意味がない!」と思ったそうで、妻や家族の献身的な支えがなければここまでの回復はなかったと家族に感謝する手記でした。
相撲解説者としてテレビに出たものの、思わず「稽古がたらん!」と言ってしまうのも、今後の相撲界をリードする現役に叱咤激励の意味もあったのかと思います。何かと問題がある今の相撲界、大先輩の思いを受け継いでほしいと願っています。
2005年定年退職、同時に相撲博物館館長に就任し5年後館長退任。生涯相撲一筋だった大鵬さんに「お疲れ様でした」と言いたいですね。ちなみに、現在の横綱「白鵬」の名は、当時ライバルだった柏戸・大鵬の名を1字づつ取った名だそうで、見事に最強の横綱になりました。
大鵬 (本名 納谷幸喜 1940年5月29日~2013年1月19日 満72歳)

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「高杉 晋作」

高杉は天保10年(1839年)8月20日、長州藩の上級武士である父小忠太と母ミチの長男として生まれました。14歳になった高杉は藩校である明倫館に入りますが、明倫館での決まりきった授業に魅力を感じなかったため落第を繰り返します。そして19歳の時高杉に転機が訪れます。吉田松陰の私塾「松下村塾」へ入ります。松陰は若くして長州きっての秀才といわれた思想家で、黒船来航の際には密航を企て獄に入れられています。
思想だけでなく、実行を重んじる松陰に高杉は惹かれていきました。高杉の性格を見抜いた松陰は、一つ年上である久坂玄瑞と競わせることで能力を引き出していきます。20歳の時、高杉は江戸へ遊学に行きます。松陰と手紙でやり取りしており、ある時「男の死に場所というのはどこか」と質問を投げかけます。すると松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と返します。
安政の大獄で捕らえられていた松陰が処刑されたのは、高杉が1年程の遊学を終え江戸を離れた10日後でした。萩に戻った高杉は両親の勧めもあり「萩城下一の美人」と称されていたマサと結婚します。しかしその後すぐに江戸への航海実習、剣術修行の試撃行(北関東、信州、北陸への旅)に出てしまいます。松陰が処刑され、高杉の胸にあったのは外国視察。それは松陰が果たすことの出来なかったものでした。
その想いが実現したのは文久2年、高杉が24歳の時でした。高杉は藩の代表として海外視察を命じられます。初めて見た海外だった上海は衝撃的なものでした。西洋人にこき使われる中国人を見て、「上海は英仏の属地となっている」と感想を残しています。アメリカの圧力で開国したばかりの日本も、いずれ同じ道を辿ってしまう。高杉の中に危機感が強く生まれました。
帰国した高杉は、幕府打倒の実現に力を入れていきます。同士を募り幕府打倒の計画を練っていた高杉に、藩は大胆な行動を控えるよう注意を促します。藩の弱腰な姿勢に憤った高杉は10年の暇を願い出ました。そして文久2年12月、幕府が建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨ら仲間と共に焼き討ちしてしまいます。
文久3年5月10日、開国反対だった長州藩は沿岸を通る外国船に砲撃を行います。1ヶ月後に報復に訪れた外国船は近代的な兵器を備えていたため、長州藩の武士達はまともに戦うこともできませんでした。この力の差を目の当たりにした長州藩は、海外視察の経験もある「高杉を呼べー!」

高杉は騎兵隊を作ることを進言。武士、町民、農民などの身分を問わずに本人の能力があれば入隊する事ができると定めました。直ちに隊員を募集すると、4日間で60人程が集まり奇兵隊が発足します。西洋式の戦略と兵器を用いた奇兵隊は、下関の防御を命じられます。続いて藩内には次々に民衆の軍隊(相撲取りの力士隊、商人の朝市隊、神主の神威隊、漁師の遊撃隊など)が結成されました。諸隊の数は200。兵力は2000人に達しました。ところが、民衆が武器を持つことを好まない武士達との間で対立が起き、奇兵隊士が武士を斬りつける事件が起こりました。高杉は責任を取って奇兵隊の総督を解任。その後も軍事行動の方針で藩士と対立した高杉は脱藩し、その罪によって牢に入れられます。
この間、京都で長州藩士が幕府の命を受けた新選組に殺される事件が起こります。「池田屋事件」です。長州軍はこれを受けて京都に進攻するも、幕府方についた薩摩軍と会津軍に破れてしまいます。晋作の盟友久坂玄瑞もこの時戦死。その知らせを聞いた晋作は悔しさに打ちひしがれました。
幕府に立ち向かったとして、長州藩を武力で制圧する命令が出されます。いわゆる第一次長州征伐で、全国の大名に動員が命令されました。それだけでなく、長州藩を更に危機が襲います。欧米列強の艦隊が来襲し、下関の砲台が占領されたのです。この危機的状況に藩は「高杉を呼べー!」

藩主の命により4ヶ月に及ぶ幽閉を解かれ、外国艦隊との停戦交渉を任されます。交渉の相手はイギリス提督。高杉は正装で直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)といった格好で現れ、終始相手を圧倒します。相手が提示した停戦条件は300万ドルの賠償金の支払い。当時の日本円で900億円もの大金でした。高杉はこれを拒否します。「この争いの責任はそもそも幕府にある」請求は幕府にしろと言い放ちます。これに対しイギリス提督は攻撃の再開をほのめかしますが、「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」と屈しません。
結局賠償金の請求は幕府に行われ停戦となり、外国艦隊の脅威を免れました。しかしその頃、長州征伐の進軍が始まっていました。長州軍4000人に対し、幕府軍は15万人。普通に戦っても勝ち目はなく、この頃多数を占めていた藩内の保守派は、争いを避けるために高杉らの追放を図ります。命を狙われた高杉は、九州の福岡に身を隠しました。
幕府軍に囲まれた長州藩は幕府の要求を受け入れ、家老3人の切腹を行います。更に軍の参謀4人も処刑されました。このままでは長州藩は潰れ、幕府の力はより強大になる。藩は再び「高杉を呼べー!」

高杉は急ぎ長州へ戻ります。奇兵隊本体の駐在所を訪ね決起を促しますが、奇兵隊総督は「無謀である」と拒否します。たとえ一人でもやってみせると、力士隊などの諸隊を廻り決起を呼びかけていきます。そして決起当日功山寺に最初に集まったのは、松下村塾の後輩伊藤博文が率いる力士隊でした。続いて猟師らの遊撃隊も集まりましたが、総勢で80人程でした。しかし、晋作にとっては十分な人数でした。「これよりは長州男児の腕前をお目にかける」。
下関の役所を襲撃した高杉達は、ここを拠点として藩内に決起を促す檄文を送りました。すると次第に協力者が増え、奇兵隊士も加わっていきました。最終的に3000人にも膨れ上がった軍隊を率い、萩へ進軍を開始します。西洋式の装備と戦略により保守派が送った軍を打ち破ると、これを機に長州藩の保守派は一掃され、再び幕府に対して立ち上がることになりました。大勝利を収めた高杉でしたが、藩の要職に就く事はせず、イギリスへの留学を志して長崎へ向かいます。
ところが、長州藩の動向を知った幕府は第二次長州征伐を発令。大型の軍艦4隻を長州へ送り込みます。これを受け長州藩は「高杉を呼べー!」

留学を中止して長崎から戻った晋作は、小さな船1隻で幕府軍に奇襲をかけます。この戦略に混乱した幕府軍は総崩れとなり、再び大勝利を収めました。この勝利を機に3000程だった長州軍は幕府軍を次々を打ち破っていきます。いよいよ幕府打倒が実現する直前、高杉は病(肺結核)に倒れてしまいます。
死の直前「ここまでやったのだから、あとはしっかりやってくれ」という言葉を残し、この世を去りました。

「面白きこともなき世を面白く」

明治維新の目前の4月14日、29歳の時でした。その後大政奉還が行われ新政府が誕生。明治という新しい時代に入って行ったのです。

先日、衆議院選挙がありました。投票率が史上2番目の低さだったそうで。現状の変化を望まない・私が投票しても変わらない・関心がないなど、思いもさまざまですが、将来の緊迫した世界情勢の中で日本はどうするべきなのか。
また、日本の現状を考えるとすでに国の借金が1100兆円。国民1人あたり900万円になるそうで驚きます。少子高齢化に加え町や村の人口減少による財政破綻。誰がこの借金を返すのか? まさか政治家が作った借金を、まさか土壇場で政党名を変えて私は知りませんとは言わないでしょうね。さても困ったことです。国民は嘆いていますがどうしますか?

「出てこい第2の高杉よ。高杉を呼べー!」ですね。  

今月もご覧いただき ありがとうございました。
お問い合わせは南房会 ishiguro.hiroaki@beige.plala.or.jp